「頭いい設定のキャラ」は自分の頭脳を超えられない説

お疲れさまです、こんばんは。
今日はなんだか仕事運が悪い日でした。
そんな日もあるよね!
シモガケでございますー。

病院から帰ってきまして、今『マワタデクルム。』第6話更新しました。

『マワタデクルム。』

年末脱臼して入院&手術しておりまして、半年ぐらいリハビリ続けてたんですけど、順調に回復し、リハビリの必要ないと言われたのはよかった(^^)
……とは言え、まだ違和感はある状況ではあり、力仕事とか自信がないので、2週間に1回ぐらいはリハビリに行ってみるとは思う。

さてさて。
昨日ぐらいのこと。
ツイッターで、「頭いい設定のキャラ」は自分の頭脳を超えられない説が話題になっておりました。

これについて賛否両論あるようですが、そんなことより、個人的には、なにを以って「頭いい設定」と言っているのか、記号論的問題のほうが謎。

「頭いい」っていろんな観点からみて、頭いいってあると思うんですよね。
それに、形容詞って基本的に他者比較前提ありきの相対的なものだと思うので、そもそも「頭いい設定」とは???って思っちゃう。
そんな表現使ちゃってる時点で、わりと頭悪いよね、正直。

個人的には、こういう記号としての言語を超えていくということが、現代のポストモダン的文学の一個の課題なのではないかと理解しているので、もし、物書きを目指しているのであれば、ちょっとでいいので、もうちょっと「文学」を勉強してもよいのではないかなぁと思ったりした。

そもそも「文学作品」を「作者」のものであると捉えるのも近代の話なのかな?って思ってしまう。
「文学作品」読んで、この作者はこういう人生だから―なんて語っちゃう、なんとなく太宰治マニアな感じ←超偏見です爆

作者を超えられない作品なんて、所詮その程度の文学作品でしかないと思うんだけど。。。
ツイッターでも書いたんですけど、名作ほど、作者の意図など超えて、長年愛読されて新しく解釈され続けるに足る作品だと学んできたし、実際そうだと思う。

もしも、文学作品を読んで、作者ガーとか。
今時糞レベルの感想しか述べられないのであれば、はっきり言って文学語れるセンスないと思うし。
単純に、文学を読む勉強したほうがいいと思うし、たいした作品読んでないんじゃないのかな?って思ったりする。

てかねー。
個人的にはこれ日本文学のよくないところだと思うんです、偏見だけど。
日本文学勉強してないから分かんないけど、文法か作者に焦点当てすぎてきたと言いますか。

ニューヒストリシズム全盛期に英米文学勉強してきたので、作者と文学だけで解釈を完結させる意味がよく分からない。

文学を読む、または書くということには、結構広い知識が必要で。
哲学とか、精神分析とか、フェミニズムとか、歴史とか……作者の認識の完結しているようで、していないと思うし。
個人的には、いろんな観点から読める作品ほど名作なのかなと思うので、まぁ、「頭いい」っつーのが作者の頭脳の中で完結しててもいいですけど。

そういった作品はそういった作品だし。
そういった観点でしか本が読めないのなら、かわいそうだねって思う。

……と。
BLすら書ききれてない一般人が吠えるのです。

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