その男、変人につき

濃い紫色の空には大きな星がひとつキラキラと瞬いている。瞬く星の横にはうっすらと細く青白い月が弧を描いていた。
三月とはいえ未明の空の下、空気は冷たく、潮風が頬を濡らす。船酔いでのぼせ上がってぼんやりした私の頭を冷やすのにはちょうどいい。

私は朦朧とした頭脳が徐々に明瞭になっていくのを感じながら、胃の中の内容物をゲーゲーと海へと吐き出していた。顎まで伸びた長い前髪に唾液がかかるのも、今は致し方ない。吐瀉物《としゃぶつ》とともに、目からは涙が、鼻からは鼻水が出てくる。

「きゃっ!」

一頻《ひとしき》り吐ききってぐったりとへばる私の後ろで、女性の声がした。髪が乱れるのも気にせず、首だけ後ろに振り返ると、女性が真っ黒な長い髪と紫色のナイトガウンを翻《ひるがえ》して、男から離れ、小走りに走り去った。唇の鮮やかな紅が印象的な官能をそそる女性だった。

取り残された格好の男が私の方を見た。
私と目が合う。

私と同じ年頃……19、20歳ぐらいだろうか?細身だが、私より少し低いくらいの長身の身体に、仕立ての良いフロックコートをすらりと着こなしている。耳辺りの短さのダークブロンドの髪が少し目元に掛かっている。彼は灰色がかった碧い眼でこちらを見ていた。

彼に話しかけられる前に立ち去ろうと思ったその時、煙突から上がる黒煙の勢いが突然弱まり、船がゆっくりと止まり始めた。
さっきまで強く吹き付けていた潮風が止み、ゆっくりと星が流れて見えていた夜空が動きを止める。

――ガラガラガラガラガラガラガラガラ……ガタンガタン

錨を降ろす大きな音が聞こえ、船が左右に二、三度揺れた後は、波の音だけがざあざあと暫《しばらく》く響いていた。
突然船が止まったため、私がこの場から立ち去りそびれていると、甲板に人が上がってきたようだ。これまでになくバタバタと人が駆ける足音と話す声が聞こえてきた。未明の静かな空の下、辺りが騒がしくなる。何処かに逃げるべきだと思ったが、何処に逃げていいのか分からずまごついているうちに、甲板前方からやって来た航海士に話しかけられた。

「お二人はこんなとことで何をしてるんですか?」

航海士は赤毛を短く刈り込んだ若い男だった。白いシャツの上には濃紺色に金色の縁取りが着いた制服を着ている。肩章のラインが一本しかないことから三等航海士ではないかと思われる。

「友人が船酔いをしたのを介抱してたんだ」

今初めて眼を合わせただけで話したこともない金髪の若い紳士が、この航海士に対して淀みなく答えるのに、内心ぎょっとしながら、私も話を合わせる。

「……の、飲みすぎてしまったのがよくなかったみたいだ。ちょっと風にでも当たろうと思って」

航海士が我々の顔を交互に見た。

「失礼ですが、お名前と部屋番号をお伺いできますか?」

「私はアーネスト・バートラム。部屋は806だ。こちらは……」

アーネストと名乗った紳士が私の顔を見る。名前の発音から察するにイェゴス帝国の人間だろう。

「ド……ドウヨ・ノエル=コーヌ。……へ、部屋は……」

言いかけたとき、アーネストが横から話に割って入った。

「部屋は同じだ」

「かしこまりました。さらに失礼を重ねますが、ボディチェックをさせていただいてもよろしいでしょうか?」

この依頼に私たちは黙って手をあげた。
航海士はアーネストのほうからチェックを始めた。彼の顔をじっと見据え、脇下から入念に上着を、そして、そこから下ってズボンに触れていく。
アーネストがチェックされている間、私は膝が、先ほど船底で見つけた名前も知らない男性の死体の血で汚れていることを思い出していた。

――見つかったらどうしよう……

内心心臓が飛び出しそうなほどドキドキしていたが、そんなことはおくびにも出さないように、すまして赤毛の航海士の目を直視する。彼の緑色の眼の中に、長い銀髪を振り乱し疲労困憊した自分の顔が映っている。
しばらく黙って顔を見つめていた航海士の目線が下に外れた。彼の手が私の脇の下に伸び、そのまま何も持っていないかチェックするかたちで、軽く叩きながらズボンへと降りていった。

――見つかったらどうしよう……

右の膝辺りを触りながら、左の膝を見て航海士が口を開く。

「……ズボンの膝が濡れていますね。」

「酔っていた勢いで、ワインを溢《こぼ》してしまいましてね」

またもや横からアーネストが、見てきたのかと思うほど滑らかに、嘘の言葉を挟む。

「なるほど」

航海士はちょっと首を傾げたが、濡れている箇所は触らず、言葉を切って目視し、

「失礼しました!」

と言いながら立ち上がって敬礼した。
まさか濡れた膝には何も隠していないだろうと判断したのかもしれない。
どうやらこの船の乗組員は性善説を信じていて、人間のチェックには慣れていないようだ。容易《たやす》く密航できたのもそういったところがあったからかもしれない。

「ちなみに、なにか不審なものをこの辺りで見かけませんでしたか?」

「いや」

私は当然、船底の倉庫にある男の死体とダイナマイトを思い浮かべたが、首を横に振った。

――ここで私は罪を告白するべきだろうか?

罪悪感と迷いが頭を過《よぎ》ったのは正直なところだ。だが、告白したら庇《かば》って嘘をついてくれたのであろう、私の隣に立っている若い紳士にも迷惑をかけてしまうことになるような気がした。

「何かあったんですか?船も停止したようですが」

私は白々しく惚《とぼ》けて話を続けた。

「……いや、今夜はちょっと……し、潮の流れが悪いので、停泊することになったんです」

航海士はなんとも歯切れの悪い答えをした。

―――そんなものなのだろうか?
素人目に分かるほど、風は穏やかだし、海は静かに凪いでいるけれども

「……き、危険なので、今夜は自室での待機をお願いします」

「ご苦労様です」

再度敬礼する航海士に会釈する私の横を、アーネストがなにも言わず、すたすたと立ち去ろうとする。私も慌てて彼に着いて行こうとしたその時である。彼が振り返り、航海士に忠告したのに、ギクリとした。

「積み荷検査をしたらダイナマイトか死体か……あるいは密航者の一人でも出てくるかもしれませんね」

――この男に着いて行っても大丈夫だろうか?

私は考えを巡らせながら、アーネストの半歩後ろを黙って歩いた。
歩いているうちに冷静さを取り戻し始めると、彼も人間である。きっと取って食われる訳ではないだろうから、そんなに疑心暗鬼に怖がることもないだろうと思えてきた。最悪、密航の罪と、船底で見つけた他殺体とダイナマイトについて尋問を受け、警察に突き出されるぐらいだろうと思うと、さっき航海士に捕まるのと大差ない。私を庇った彼の目的がどこにあるのかは分からないが……ここまで考えてふと重大な考えに思い至る。

――この男が殺人犯なのだろうか?
もしかすると死体を発見した私も殺されるかもしれない!

そう思った頃には時すでに遅し。
私たちは目的の806号室に着いてしまった。

甲板を階段で三階下って右舷方向、一等客室六部屋目が彼の部屋だった。
木製の扉に「806」と優美なセリフ体で書かれた金色のプレートが張り付いている。

――殺されるかもしれない……

「どうぞ」

身構える私のことは気にしない様子で、アーネストは私を部屋に招き入れ、ソファを勧め、その正面に、自分は腰掛けた。

「どうせ行くところはないんだろう?」

ほとんど話したこともない初対面の男に言い当てられ、私はさらに身を固くした。心臓の鼓動がドキドキと止まらず、胸が締め付けられるように痛い。

「密航か?」

ズバリそのものを言われ、私は自分で表情が固くなるのが分かった。顔がひきつってぎこちなく作り笑いすることもできない。
アーネストはローテーブルに置いてあるパイプを手で持ち上げ、火を着けるでもなく続けた。

「君が駆け上がって来た階段は関係者以外使用できない。
そんなところから飛び出して来たんだから乗組員に違いないが、君はそんな服装をしているわけでもない。しかも使い物にならないぐらい船酔いしている。あそこから上がってくるのは、客でも、乗組員でもないなら密航者でしかない」

白眼《しろめ》との境目が曖昧な灰色がかった薄いブルーの眼が私をぼんやりと見つめている。私は、霧のなかに迷い込み、自分では分からないまま、どこかから見つめられているような、得体の知れない気持ちになった。

――この男は、何を考えているのか?
――どこまで解っているのか?
――私を殺すつもりなのか?

「……君の言う通りだよ」

私は平静を失わないように、なるべく声を落ち着かせるようにして答えたつもりだが、自分でも少し声が震えているのは感じた。

――話せば分かる男だろうか?

とにかくここは理性を失わず、命だけは取られないように交渉を進める必要がある。

「船員に突き出すなりなんなりすればいい」

「船員に突き出すつもりならさっきしてるだろう」

膝から下が長細い脚を組み直し、彼は続けた。

「まぁ私もあまり大っぴらにできない理由であそこにいたから、君を庇うことになってしまったんだが」

「大っぴらにできない理由って?」

彼は無言でベントパイプを片手で弄びながら黙っている。「大っぴらにできない」から黙っているのだろうと気づいて、彼の気分を害したのではないかと不安になってきた頃合いに、アーネストは口を開いた。

「他人《ひと》の女と逢い引きしていただけだ。聞く?ゲスい話しか出てこないけど」

予期しなかった彼の言葉に私は目が点になった。……逢い引き?

「……私を殺そうとしてるんじゃないのか?」

「なぜ?」

緊張で口が乾いている。喉から振り絞るようにしてようやく発した私の質問に、アーネストは拍子抜けしたようにポカンと疑問形で答えた。

「いや……」

――お前が殺したのかと思って!

と言いかけて、私は口ごもった。
死体を発見したことは自分の口からは言わず、黙っていた方がいいのではないかと思う。どうやら私は殺されるわけではないということが分かったのだから安心だ。

安心したところで新しい疑問が湧く。

――コイツは愛人業でもしているのだろうか……?

美形という点では私の比ではないが、彼のどことなく寂しく儚げな雰囲気には女性が放っておけないだろうなという風情があるようには思う。妙な男性的色気の漂う、つまりは色男なのだ。
なんにしても、この話題についてはあまり詳しく聞きすぎて、この自称・間男の機嫌を損ねるのは得策ではない。

「旅の目的は?」

話したくないと言っているのだから、私は彼の「逢い引き」には深くツッコまず、話題を変えようと思った。

「特にない」

「いやいやいやいや、特にないことはないだろう?目的地はどこ?」

「特に決めていない」

「特に決めていないって……家出?」

無表情に濁った彼の碧い眼がキラリと光ってこちらを見たような気がした。沈黙が続く。

――変な男だ。

「……じゃあ、うちに来る?」

あまりこの男には触れないほうがいいかもしれないと思ったが、密航しているため隠れる宛がない身としては、今部屋を追い出されるのも困る。それに、この会話の続かない男に少し興味を持った私は、申し出た。

「特に行く宛も決めてないのなら、プランセールに滞在すればいい。うちは狭いけどパリの中心部にあるし、長く滞在しても飽きないと思う。
私はね、今はやむなく密航という手段を取ったが怪しいもんじゃない。劇作家の卵だ。
プランセールからイェゴスへ、演劇の勉強をしに遊学していたのだけれど、路銀が尽きてしまって……。ちょうどプランセールの帝政が倒れただろう?
これは帰国すべき何かの知らせだと思ってバトゥーにやって来たら、少年がこの船の貨物コンテナに潜り込む方法を教えてくれたんだ!そうして今、私はこの船の中にいる……」

私が話している間も、彼は宙を眺めているのか私を眺めているのか分かりにくい眼差しをこちらに向け、黙ってパイプを弄んでいた。

「私がプランセールの家を君に提供する代わりに、この部屋にしばらく泊めてもらえないか?」

「好きにすればいい」

私の申し出はすんなり受け入れられたようだ。自分の行く先を勝手に他人に決められて本当に問題ないのか?私には大アリに思えるが、彼がそう言うのならばいいのだろうか?……というかチケットはどこまで購入したのだろう?終点の新大陸までなのだろうか?

「ところで、その服、着替えるか?私のでよければ」

目の前の男について疑問で頭をいっぱいにしている私のほうを、当人はちらりと見て、急に実用的なことを話し出した。

「いや……そこまでお世話になると悪いし」

「サイズが少し合わないかもしれないが……その血で汚れた服装でいるわけにはいかないだろう」

「……血と分かってたのか?」

私は再び驚いた。
この男は他人に興味などないように装いながら、いつの間にかじっと鋭く他人を観察をしているのだ。

「密航者がそんなに黒々とシミになるほどワインで膝下を汚す訳がない。怪我でもしたのかというと、甲板まであんなに勢いよく駆け上がってきて嘔吐する男が怪我している訳がない。片膝を立てて誰か血を流している者を介抱したのかと思っていたんだが…死体でもあるのか?」

「死体」という言葉を聞いて、私は唖然とした。

「……見てたのか?」

驚嘆で私は、自分の声が震えていることを感じながら、彼に尋ねた。

「いや。片膝を立てて誰か血を流している者を介抱したんだろう?介抱しているとすれば、仲間か見ず知らずの他人だ。もしその人間が生きているのなら、君がソファに座って、こんなに悠長に私と会話していられるだろうか?……もはや手遅れなのだなと思ったんだ」

彼は言葉を切って、手に持っていたパイプの吸い口をちょっと噛んだ。

「そして、その死体は君の仲間ではない可能性が高い。少なくとも君が平然と遺体があることを隠そうとしていうということは、全くの赤の他人か……君が殺意を持って殺した人間かということなんだが」

アーネストがこちらに視線だけを向けた。

「私は殺してない!密航した時入っていたコンテナから出た時にはすでに死んでたんだ!!!」

あらぬ疑いをかけられるのに耐えられず、私はついついローテーブルを握り拳で叩いた。興奮する私とは裏腹に、アーネストは淡々と尋ねた。

「それはどういう状態で?」

「背中をナイフで刺されてた!」

「なるほど」

「私だって自分が密航さえしてなければ、死体を発見したことはすぐに船員に報告して警察に訴えているところだよ!!!」

私は握り拳をさらに硬く握った。指摘されると一番痛いところを突かれて、私は心の動揺を隠しきれなかった。

「……どうすればいい?」

私は少し冷静になり、声を抑えた。
アーネストは相変わらず飄々とした様子で、パイプを元の位置に置き直した。

「……早晩」

どうやら私の心からの質問に回答を思案していたようだ。

「警察が来るかもしれない」

アーネストが根拠のない予言めいたことを口にする。私はその予言にぽかんとした。

「……というか、そろそろその死体が見つかるかもしれない」

彼は私の方を見るでもなく、呟いた。

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