グッド・ナイト

残された私たち三人は、アーネストが去った後も暫《しばら》くは、なおも重苦しい空気の中、沈黙し続けた。アダムス男爵は頭を抱えたまま。ビニスティ氏はウィスキーを片手にグラスを回しながら斜《はす》に座って床をじっと見詰めている。私はテーブルの上にグラスを置き、その正面で両手を組んで俯《うつむ》いていた。どんよりとした雰囲気がこの場を支配し続けていた。
ここは何か気分の晴れる話題に切り替えたい。私は共通の明るい話題はないか頭を捻るのだが、気まずい雰囲気を何とかしよう何とかしようと焦れば焦るほど頭は真っ白になった。一番の若輩者である私が何か話題を提供せねばならないと思うが気の利いたことが全く思い浮かばない。
無難に天気の話でもしようと意を決して頭を上げたその時である。私よりも一瞬早くビニスティ氏が目線を上げ、待機していたポールに、そのよく通る声で呼び掛けた。

「……ポール、私が冷やしておいたシャトー・ディケムを持ってきてくれないか?ここは飲み直しが必要だ」

シャトー・ディケムと言えば私でも知っている世界最高峰の貴腐ワインだ。最良の葡萄しか使わないため、通常一本の樹からグラス一杯分しか収穫できない上に、葡萄の菌のつきが悪ければ収穫すらしないこともあると言うのだから、極めて希少なワインである。
アダムス男爵とビニスティ氏の気分を害したことと、ここにいないアーネストには悪いとは思うが、こんなところでご相伴《しょうばん》に預かれるという幸運に、私は密かに喜んだぐらいだ。美味しいものを口にしたら空気も変わって気分もなおるに違いない。

「それはいい考えですね!飲む酒の味が変われば、気分も変わりますよ、きっと!!!」

私がビニスティ氏のとても気の利いた意見に喜ぶと、アダムス男爵も頭から両手を離し、力なく微笑みながら「ああ、そうだね」と賛同してくれた。

濃い密色の白ワインが、ポールの手でグラスに注《そそ》がれていく。よく冷えているようで、水滴が透明なボトルの周りにも白く靄がかったようについていた。
グラスからこのワインを一口口に含むと、優美な香りとトロリとした甘味が口のなかに広がっていく。単に甘ったるいのではなく、酸味とコクのバランスが取れており、まさに「奇跡の神酒」と称されるのに値する味だ。芳醇な甘みと香りを残しながらも、後味よく、するりと喉の奥に溶け込んでいく。

「これはうまい」

美酒あるところに笑顔あり。アダムス男爵の顔も綻《ほころ》んだ。

「喜んでいただけて、よかった」

ビニスティ氏からも笑みが溢れる。

「シャトー・ディケムが『特別一級』に指定されたのはいつのパリ万博でしたかな?これを凌ぐものはない最高級品ということで唯一指定されたはずですが」

アダムス男爵が、ワインについて思いの外詳しく尋ねるのに、ビニスティ氏が答える。

「確か1855年です」

「1855年……!そうでしたら、これはちょうどその頃のものですね。こんな貴重なワインをいただけるなんて……私なら独り占めしてしまいたいところですが、我々にまで振る舞っていただけるとは!さすがビニスティ氏は違いますな!本当の人格者だ」

「いえいえ、そんな……。酒は独りで飲んでもこんなにうまくはないでしょう。みなさんと飲むから楽しくて、より一層うまくなるのだと思います」

ビニスティ氏は謙遜してはにかんだように言葉を切り、ポールのほうをちょっと振り向いて言葉をかけた。

「ポール、ありがとう。今夜はもう下がっても大丈夫だ。今日はもう遅い。明日もよろしく頼む」

ビニスティ氏がポールに話すのを聞いて時計を見ると、針はすでに22時を指そうとしているところだった。

私たちはこの味わい深い甘口のワインを口に含み舌の上で転がしながら、ゆっくりと沈黙すら楽しんでいた。夜はまだ始まったばかりだ。これからが長い。

「1855年と言えば、私はすでにアメリカに渡って事業を始めようとしていましたが……アダムス男爵はどうされてましたか?」

ビニスティ氏が昔話を振り返り始めた。

「私はちょうど最初の結婚をした頃だな。……。先程は前妻とのお恥ずかしい話をしましたが、あの頃は本当に大変だった。前妻はなかなか心を開いてくれませんでして、苦労しましたよ。なんでも、結婚する前に他に好きな男がいたとかで……女は難しいもんですな。『弱き者、汝の名は女なり』とはよく言ったものです。ドウヨくんも女性には気をつけたまえよ!
キミは……ちょうど生まれたぐらいかな?」

「いえ、私はまだ生まれてません。私は生まれたのが1859年なので……」

妻の他に堂々と愛人を作っているアダムス男爵に果たして女性の貞操観念ののなさを責める資格はあるのか?疑問に思いながら、私は答えた。

「……おや!?まだそんな歳だったのかね。まだ若いな!!!クレアとそんなに変わらないのか。クレアで今年17だから……君は19かね?」

アダムス男爵が私の年齢に驚いて見せた。やはりクレアと私はそう変わらない年齢のようだ。

「そう言えば……お嬢さんとモラン氏のご婚約のお話は順調に進んでいますか?」

ビニスティ氏が、娘の婚約というめでたい話題をアダムス男爵の方に向けた。この滅多に口にすることができない希少なワインの味にすっかり気を取り直したのか、アダムス男爵がニコリと満面の笑みを浮かべて答える。

「婚約の話自体はとても順調ですよ、話自体は。マテューは貴族の家柄出身ですし、経済力的にも申し分ない。見た目も……人柄だって悪くない。彼になら安心して娘を任せられます。しかし……」

笑顔から一転、男爵の顔が曇る。

「この船はいつまでここに停泊していなければいけないんでしょうね。正式な婚約はプランセールで行おうと思っていますから、船が着かんことには話が進まんのですよ……殺人犯が掴まらん限りは動かせないのかもしれませんが、我々被害者家族だけでもサバティエまで連れて行って貰えないものだろうか……幸い天気はいいし、海も穏やかなのだから、運航自体には問題なさそうですが、そういうことはできないのですかな?」

船が動かないことへの不満を口にしたアダムス男爵にビニスティ氏が申し訳なさそうに詫びた。

「船の停泊の件は、申し訳ございません。私共も警察から停めるように命を受けているので勝手には動かせないのです。大変御迷惑お掛けしますが、少々ご辛抱ください」

ビニスティ氏の返答を聞きながら、私は自分の身体がどうにもこうにも言うことをきかないことに気づき始めた。「酒は人を魅する悪魔である。うまい毒薬である。心地よい罪悪である」とは、アウグスティヌスはよく言ったものである。
シャトー・ディケムはまさにうまい毒薬だ……心地よい強烈な睡魔の中に溺れてしまいそうな自分との闘いが始まった。

――酔いが回ってきたのだろうか?

一生懸命まばたきを何回もして、目を覚まそうとしているのだが、瞼がとろんと重く落ちてくる。

「……食料や燃料は大丈夫なんでしょうか?」

次に私は、自然と出てくる欠伸《あくび》を噛み殺しながら、何とか喋って目を覚まそうと試みた。アダムス男爵の警護をしなくてはいけないのだ。この心地よい酩酊に身を任せて眠ってしまうわけにはいかない。

「それは定期的に補給して貰ってるから今のところ問題はない。ただお客さまを足止めしてしまっていることは本当に申し訳なく思っているよ」

ビニスティ氏が喋る声が――意識が――遠くなっていく。頭がぐらぐらと揺れ始める。

「……失礼!」

私は我慢しきれなくなり大きな欠伸をひとつした。欠伸と共に涙が出る。
ビニスティ氏は私の大きな欠伸など気にしないかのように、男爵に話を続けた。

「お嬢さんには他に愛する男性がいることを、アダムス男爵。あなたはご存知で?」

「……クレイグのことですかな?……娘が気に入っていることは知っていますが……ふわぁ……失敬!……あの男ではいかんでしょう……何せ身分が……」

アダムス男爵も相当に眠そうだ。ガクリガクリと頭を揺らしながら、欠伸混じりにビニスティ氏の話し相手を務めているが、返答に詰まり始めている。

「あなたはイヴにしたことと同じことをお嬢さんにもするおつもりなのですか?」

頭がくらくらする。瞼が重くて目が回る。

――眠ってはいけない
――眠ってはいけない
――眠ってはいけない
――眠ってはいけない
――眠ってはいけない

心の中で呪文のように何度も唱えながら、頭を上げて、目一杯眼を見開くが、迫り来る睡魔には、なす術もなく勝てそうにない。
途切れ途切れに聞こえてくるのはアダムス男爵の声だろうか?アダムス男爵もまた私と同じぐらい酷く眠そうだ。

「……何……で……す……と……?」

「あなたはイヴにしたのと同じように、愛してもいない男との結婚を推し進めるのか?と聞いているのです。……お嬢さんも不幸になるとは思いませんか?前の奥さまと同じように……」

ビニスティ氏の声だけが子守唄のように遠くで響いている。

――ダメだ……もはやビニスティさんが何言ってるかも判別がつかない

私は身体を前に倒してみた。身体を動かせば目も覚めるかと思ったが、身体の重み自体をうまく支えることができない。

「……」

「何故イヴは神経衰弱なんかで死んだんでしょう?貴方が殺したも同然じゃないですか?……同じ事をクレア……娘さんにもするおつもりなんでしょうか?」

――眠い!!!

私は前のめりに身体を倒したまま、動くこともできず、瞳を閉じた。目の前が暗い。身体から力が抜けていく。
今はもう、この襲い来る睡魔に身を任せて、楽になりたい。酒はまさにうまい毒薬だ……

――ビニスティさん、ごめんなさい……僕はもう寝ます……ビニスティさん、ごめんなさい……

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