暗殺者

『暗殺者』――アサッシン「assassin」の語源をご存知だろうか?
「assassin」の語源は、アラブ語の「hashshashin《ハッシャーシーン》」。「hascise《ハッシシ》」を吸う者という意味からからきている。「hascise《ハッシシ》」とはアラブ語で「大麻」のことだ。つまり「ハッシシを吸う者」とは麻薬中毒者のことなのだが、これがなぜ「暗殺者」という意味になるのか?

その由来は中世十字軍の時代にまで遡る。
それ以前から、イスラム教国側には「山の老人」と呼ばれる正体不明の謎の人物に率いられた、金のためだけに暗殺を請け負う暗殺者集団が存在していた。
「山の老人」は山中に秘密の楽園を造り、大麻で眠らせた里の若者を連れ去って、考えられうる限りの快楽に極めさせた。忘れられないほどの快楽に溺れた若者たちに、「山の老人」は、この快楽の園に永遠に暮らしたければ忠誠を誓うように仕向け、暗殺などの謀略を強要したと言う。
「ハッシシを吸う者」には特に宗教的な理念はない。彼らはただ単純に金で暗殺を請け負った。金さえ貰えば、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、的《まと》にして暗殺する。十字軍遠征以前のイスラム世界では、イスラム教徒同士の内乱の最中暗躍し、キリスト教徒との対立が激化し、その犠牲者にキリスト教徒が名を連ねるようになって以降、「暗殺者」と言えば「ハッシシを吸う者」が連想されるようになったのだ。
「ハッシシを吸う者」は大麻を吸引した恐れを知らぬ状態で、独特の形状をした反り身のナイフを振りかざして暗殺を実行する。彼らは捕縛されるのも厭《いと》わない上に、もし捕まえることができたとしても、大麻による錯乱状態で意味の通ることを自白させることが難しかった。それ故に「ハッシシを吸う者」は捕えられたとしても、暗殺の依頼者の名前も、「山の老人」の正体も、アジトの在処も分からないまま処刑するしかなかった。

ウマル・ルルーシュが若くして亡くなり、モフセン地方の次期太守の座についたのは、若干16歳の息子ナギール・ルルーシュだった。ナギールは利発そうな涼やかな目元をしている。背は低く華奢な身体つきの美しい青年である。
このナギール・ルルーシュは父の跡を後継した後すでに二回、「ハッシシを吸う者」に襲撃を受けている。一度目は後継披露の宴の最中。二度目は狩りの最中であった。
ナギールが暗殺者に襲撃される度に、その命を救ったのは、彼と行動を共にしていた、将軍の息子サレハ・イスマーンと大臣の息子ジャファル・クルスームだった。サレハの父親もジャファルの父親もナギールの教育係だった。身分の違いはあれ、歳の近い三人は兄弟のように育てられた仲だった。
第一の暗殺者は宴の最中に斬りかかってきた。食事を運ぶ召し使いになりすましていたのだ。暗殺者が懐中に手を入れた瞬間、抜き身のナイフが光るのを見逃さなかったサレハが、その場で斬って捨て事なきを得た。
第二の暗殺者は森へと狩りに出掛けたところで、木の上から複数で襲ってきた。共に狩りに着いてきていたサレハとジャハルがナギールの盾となり、供の者と共に戦い、暗殺者は切り捨てた。暗殺の依頼者の名前を聞くために、最後の一名だけ生かして取り押さえたが、彼はその場で自分の喉を掻き切り、自害した。
暗殺の依頼者は無論不明だ。次期太守の座を狙っていたナギールの叔父アブー・ルルーシュであるとも、モフセン地方を狙っている隣国の太守アイマン・フセインであるとも噂された。狩りの最中に暗殺者に狙われた後には、大規模な山狩りを行ったが暗殺者に関わる手掛かりは出てこなかった。

「『ハッシシを吸う者』は次から次へと沸いて出てくるゴキブリみたいなもんだ。いっそのこと正面からオレを先に狙えば奴らの無駄死にも減るだろうに!暗殺なんて手段を使わずに、正々堂々戦えばいい!!!」

折角の山狩りも骨折り損に終わったことに苛立ちを隠せなかったようだ。山狩りから宮殿に戻り自室へと向かう途中、サレハはジャファルに毒づいた。
カツーンカツーンと踵を鳴らして歩く音だけが響いていた。静かな夜だ。青白い月光に照らし出された、真っ直ぐに続く大理石の廊下には二人の姿しか見えない。

「サレハ……滅多なことは言わない方がいいよ。『ハッシシを吸う者』はいつの間にやら忍び寄り、音もなく標的の首を掻き切ると言われているんだから、この会話も聞かれているとも限らない」

ジャファルが真っ直ぐな長い黒髪を掻き上げながら苦笑してサレハに忠告する。

「馬鹿言えよ!二度の暗殺未遂事件で今宮殿は厳戒体制だ。人っ子ひとりどころか鼠一匹入れやしないって!」

サレハの専用の寝室は宮殿右翼にある。ジャファルの部屋とは向かい合わせだ。二人は廊下を右に折れ、部屋の前までやって来ると「おやすみ、また明日」と言って左右に別れた。
サレハは扉を明け自分の寝室に入った。灯りは点しておらず、目の頼りになるのは窓から射し込む月の光だけだ。サレハは疲れた身体を休めようとベッドに横になろうとしたその瞬間である。
テーブルの上に置かれた《《何か》》が月明かりを反射してキラリと白く光った。何だろうと思ってテーブルに近付くと、

――貴方の命を頂戴する費用さえいただければ、仰せのままにいたしましょう

と書かれた手紙と共に、挨拶の甘菓子、「ハッシシを吸う者」が暗殺をする時に使う独特の形状をした反り身のナイフが置かれていた。
「ハッシシを吸う者」はサレハの言葉を一体どこで聞いていたのだろうか?あの会話の後、いつの間に鍵のかかった寝室に侵入したのだろうか?
サレハはぎょっとして腰の剣に手をかけて辺りを見回した。誰もいない。背中を悪寒が走り、嫌な汗が一筋伝っていった。

その後サレハは「ハッシシを吸う者」という言葉を二度と口にすることはなかった。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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