最後の晩餐

908号室――アダムス男爵の部屋の前には19時に集合予定だったが、ビニスティ氏を待たせるわけにはいかないので、私たちは18時45分には着いていた。

「やあ」

廊下の向こうからビニスティ氏とその執事ポールが歩いてくるのが見える。ビニスティ氏は右手を上げながら私たちに簡単な挨拶をした。私たちはそんなビニスティ氏に会釈を返す。
ポールが主人の代わりに908号室の扉をノックした。アーネストと私はビニスティ氏の後ろに立って、アダムス男爵が返事をするのを待っていた。

「ビニスティさんですね、どうぞお入りください」

先程の喫煙室での一件があったからだろう。扉を開けたクレイグは、ビニスティ氏の肩越しにアーネストと私の顔を見つけ、ちょっと驚いた顔をして言った。

「今夜ご一緒すると仰《おっしゃ》っていたお二人とは、バートラムさんとコーヌさんでしたか」

「ああ。たまに若者を交えて意見交換しなくては頭が時代の流れについていけなくなるからね。……失礼するよ」

ビニスティ氏が笑顔で答えながら部屋に入る。私たちも彼に遅れを取らぬように後について歩いた。

「ビニスティさん、ようこそ!呼んで頂ければこちらから伺いましたが、わざわざお越しくださってありがとうございます」

「いえいえ、お礼には及びません。こちらこそ急なお誘いにも関わらず、お受けいただき光栄です」

ソファに座っていたアダムス男爵が立ち上がり握手を求めた手を、ビニスティ氏も固く握り返した。
ビニスティ氏との挨拶を終えたアダムス男爵の視線が私たちを捉える。アダムス男爵が驚き唖然とした表情になりかけたところで、

「先程はどうも……大変失礼いたしました」

私は素早く挨拶をした。
今度はアーネストも、私に押さえつけられることもなく自らお辞儀をする。

「……いや」

私たちが先に頭を下げたのもある。それにビニスティ氏の手前もあるからだろう、アダムス男爵が喉元まで出かかった言葉をグッと飲み込んだような気がした。一言だけ答えた。

この予期しないやり取りに少し驚いた様子のビニスティ氏が、背後を振り返り、私たちの顔を見る。

「君たち、先にアダムス男爵に会っていたのか?」

「談話室で偶然お会いしたので……ちょっとご挨拶させていただいたんです」

私は苦笑して当たり障りのない回答をした。ビニスティ氏は「ああ」と理解を示して、また正面を向き、アダムス男爵に言った。

「今夜の食事は私の方でご用意させていただきましたから、ポールに給仕させます」

「クレイグ、下がってて大丈夫だ」

「ポール、よろしく」

食事は予定通り、ビニスティ氏の方で用意できていた。アダムス男爵の指示通りクレイグが「失礼します」と頭を下げて部屋を去り、代わりにポールがシャンパンを持って現れる。
アーネストと私が隣り合わせで、そして私の向かいにアダムス男爵、アーネストの向かいにビニスティ氏が座った。

シャンパンが静かに注がれていく。グラスの壁面から立ち昇る細やかな泡を見つめながら、アーネストと私は、男爵とビニスティ氏が話しているのを黙って聞いていた。

「……しかし、この度の御子息の件は、突然のことで言葉もありません。しかも私共の船でこのような事態となりまして、誠に申し訳ございません。心よりお悔やみ申し上げます。お辛い中、ご訪問をお許しくださり、ありがとうございます」

「お気遣いありがとうございます。
まったく息子がなぜ殺害されなければならなかったのか……怨みでも買っているのか?金が目的なのか?
ひとりで部屋にいると息子のことばかり考えてしまって気持ちが酷く不安定になりますから、本日のようなお誘いはたいへんありがたい」

「夫人やクレアさんもお呼びできればよかったのですが……」

「二人は部屋が別ですからな。ここには入りきらないでしょうし、今はあまり食事を取りながらお話しできる精神状態でもありませんから……」

「そうですか……それは残念です」

ビニスティ氏が残念そうに顔をしかめた後、話を切ってグラスを置いたのとほぼ同時ぐらいに、前菜が運ばれてきた。
クリームイエローのじゃがいものマッシュを拳よりも少し小さめに丸め、薄く切ったズッキーニで巻いている。上には彩りとして細かく刻んだらプチトマトがあしらわれていて見た目にも楽しい。じゃがいものマッシュには鳥肉が入っているようだ。レモンとハーブの爽やかな香りの後にピリッとした肉の旨味が感じられ、抜群にうまい。

「特に娘はいつもお世話になってます。先日もバーマン救貧院にお手伝いに行っていましたが、お会いしましたか?」

料理をフォークで口に運びながら、アダムス男爵がビニスティ氏に尋ねる。

「はい。あの日は私もちょうどその場におりまして、クレアさんがいろいろと気を回して手伝ってくれるので大変助かりました」

救貧院での炊き出しについては、メニューの考案、材料の用意、実際の作業、片付けに至るまで、クレアのお陰でスムーズに行っているので大変有難いといったことを、アダムス男爵に丁寧に説明し、礼を述べた。

「……いや、お役に立っているようでしたらなによりです。
ビニスティさんこそ、自らの事業で成した財を善行に還元するなんて、敬虔なキリスト教徒の鏡ですな。産業資本家の諸君は斯《か》くあるべきだと思います。
今の時代の流れでしょうか。爵位なんてものはあっても土地屋敷の維持費が掛かるし、食うにはほとんど役立たなくなりそうですよ。
今の時代なら、本国の土地は売って株でも買って投資したほうがいいかもしれませんな。……ビニスティさんは事業の方はいかがですか?」

前菜が下げられ、今度はスープが運ばれてくる。琥珀色をした澄んだスープだ。その透明感にも関わらず、深く濃厚な旨味が感じられるのが不思議だ。

「お陰さまで順調ですよ。イェゴスの植民地拡大に比例して、貿易事業自体は右肩上がりにうまくいっているのですが、国そのものとしては、イェゴスよりも、新大陸の発展のほうが目覚ましいものがありますね。イェゴスは新大陸から輸入する綿花の代金の支払いに、阿片で儲けた銀を当てているぐらいですよ。新大陸に金が集まるわけです」

「あそこはなにしろ広いですからね。開拓すればいくらでもチャンスがありそうだ。アメリカン・ドリームというヤツだね」

「そうですね。大陸横断鉄道が開通してからは、西部の開拓が進んでいますから、今が国の伸び時、我々の稼ぎ時でもある。移民も増えていますからね、労働力も豊富です。このままでいくと20世紀はアメリカの時代になるかもしれませんな」

アダムス男爵とビニスティ氏が新大陸の話に華を咲かせているうちに、私たちは車海老のグリルと鹿肉のローストを平らげた。
ハーブバターを載せて香ばしく焼き上げた車海老を食べ終わった後、塩胡椒の効いた鹿肉のローストをフランボワーズの甘酸っぱいソースに絡めて味わっているうちに、話はプランセールの話題に移っていく。

「プランセールも戦後七年ですかな?ようやく復興してきて、今年はパリでは万国博覧会が開催されますし……イェゴスの後追いにはなりますが、今後南方に進出していけば、まだまだ経済も成長していくでしょう」

ビニスティ氏が発した「万国博覧会」という言葉にアダムス男爵が食いついた。

「パリ万博は確か五月下旬からでしたね。ちょうどいい。クレアの挙式時期と重なるのならば、ぜひ見てから帰りたいものです」

「ああ、それがいいと思います。私の会社でも万博での展示品の輸送もいくつか請け負うのですが、各国の名品・珍品が集まる予定ですよ。トロカデロに現在建築中の日本の庭園と家屋はたいへん興味深いですよ」

「はあはあ、日本ですか。それは興味深いですな。あの重そうな髪飾りをつけ、金ぴかの派手な着物を来ている女性たちが、一体どんな暮らしをしているのかは、この眼で実際見てみたいものです」

今度の話題は日本趣味《ジャポニズム》だ。これには私も興味が惹かれる。はっきりとした図柄と大胆な構図に、赤、藍、緑といった鮮やかな色彩を乗せる浮世絵。工芸品にしても、繊細で細やかな彫り物を施した上に、艶やかな黒漆を塗り、きらびやかな金箔を貼っている蒔絵の箱やら、大きな白磁の壺に繊細な絵付けをした伊万里などが、いかにも東洋的な異国情緒が溢れていて印象的だ。ああいった繊細でいて大胆な独特の感性を持っている日本人というのはどんな民族なのか、また、彼らの住む日本という国はどういった国なのか――私は非常に興味を持っていた。

食後酒にウィスキーが入って、心地よく酔いが回り始めると、話も興に乗ってくる。

「……男爵は歌麿の美人画がお好きなんですか?私は風景画が好きでしてね。版画だというのにあんなに細やかに、それでいて、ダイナミックに表現できるのが素晴らしい。特に広重の風景画に描かれた景色というのは一度見てみたいと思っています。
食堂に飾っている絵もご覧になりましたか?
斜めに川を走らせて遠近感を出し、中央の知恵の樹とイヴに焦点があたるよう、広重の構図を絵に取り入れてもらったのです」

「ああ。あの食堂の『失楽園』の絵ですか。ビニスティさんが直接画家にご依頼されたんですね」

アーネストが二人の会話に口を挟んだ。

「ああ、そうだ。あの絵はこの客船のために描いてもらったんだ」

ビニスティ氏が答える。

「私は絵のことは分からないのですが、あの絵にはアダムがいませんね。なにか意図でもあるんですか?」

「大いにある。
さっき君は『失楽園』と言っていたけれども、あの絵のテーマは『楽園のイヴ《イヴ・ド・パラディ》』。船の名に合わせてイヴを主人公にしたかったんだ。
……君はアダムとイヴのイヴが最も幸福だった瞬間はいつだと思うかね?」

この詩的な質問にアーネストが答えられるわけがなかった。彼なりに首を捻って考えてはいるようだったが、答えは出てきそうにない。

「特に考えつかないかね?」

「……はい、すみません。聖書の通り、エデンの園で暮らしていたイヴは毎日変わらず幸せに暮らしていたのではないかと」

「それは正しい。知恵の実を齧る前のイヴは幸せだったと思う。
それは間違いないが、私はね、蛇に唆《そそのか》され、知恵の実を齧《かじ》った瞬間が無上の幸せの瞬間だったと思ったから、あの絵を描いてもらったんだ。あの絵はイヴの最高に幸せな瞬間を描いている。だから、アダムはいないんだ」

「なるほど。そうでしたか。それは気づきませんでした。イヴの幸せな瞬間にはアダムはいないんですね」

アーネストがチラリとアダムス男爵の方を見たのを私は見逃さなかった。
イヴの話を持ち出し始めた時から嫌な予感はしていたのだ。アダムス男爵の前妻の名前を挙げ、またアーネストがアダムス男爵の逆鱗に触れないか気が気ではなかったが、酒が入って気持ちがいいのか、仄《ほの》かに顔を紅潮させながら、アダムス男爵がむしろ愉快そうに語り始めた。

「……確かにイヴの幸せな瞬間には私《《アダム》》はいなかったかもしれん。イヴ・アダムスはとても幸せとは言えなかったからね」

「確か……イヴ・アダムスというのは、エリノア夫人の前の奥様のお名前でしたか?お伺いした記憶があります」

イヴの名前を話に出した時点でアーネストは確信犯的にアダムス男爵の前妻の話を聞くつもりだったのに違いない。「確か……」も何もあったものではない。

「そうだそうだ。君たちはイヴのことを知っていたのか」

「ええ。エリノア夫人からお伺いしました。……イヴさんは何か不貞を働いたのでしょうか?夫人はイヴさんが過ちを犯したと仰ってましたが」

「アーネストくん、君はなんという無礼なことを……」
「エリノアはそんなことまで話したのか!?」

ビニスティ氏がアーネストのこの上なく失礼な質問を止めようと声を掛けたのと同時に、アダムス男爵は残っていたウィスキーを一気に飲みこみ、ガンッとグラスをテーブルに叩きつけた。ガチャンと氷が音をたてる。

「アーネストくん、君はそろそろ帰る時間じゃないかね?」

アーネストの一言で場の雰囲気が一気に悪くなってきたので、ビニスティ氏はこの不愉快な発言を繰り返す男の退室を促そうとしたのだろう。語気が粗い。
しかし、アーネストはビニスティ氏の声が聞こえなかったのか、聞こえないふりをしているのか――アダムス男爵にウィスキーを注《つ》ごうとしたポールからボトルを受け取り、ウィスキーを作り始めた。これを見たビニスティ氏は仕方なく途中で言葉を飲み込み、がぶりとウィスキーを煽る。

「……イヴが私に働いたのは精神的不貞と言えるものだった。私と結婚する前に好きだった男のことが忘れられなかったようだ。いつまでもいつまでも泣き続けていて鬱陶しかった」

「何故結婚する前の男のことが忘れられなかったと思っていたんですか?いつまでも泣き続けているのには他の理由もあるでしょう」

「何故?……それを私に聞くかね?」

アダムス男爵が自嘲気味に笑い、吐き捨てるように話し始めた。

「何故なら、イヴは私が彼女を愛することを拒み続けたからだ。毎夜毎夜、彼女は私を拒み続けた!……二年半だぞ!?結婚して二年半!私は二年半彼女が心を開くのを待っていたんだ!!!」

男爵はアーネストの作ったウィスキーを横から奪い取り、一気に半分まで飲んだ。

「二年半後、あなたはイヴさんをどうしたんですか?」

悪魔的な冷淡さでアーネストが静かに、しかし、はっきりとした口調で問い詰める。アダムス男爵の方は向いてはいるが、どこを見つめているのか焦点の分かりづらい灰色の淀んだ藍い瞳が氷のように冷たい。アダムス男爵は首を横に二、三回、ゆっくりと振った。

「三年後にアーサーさんが生まれます。……あなたは毎晩性交渉を拒み続けるイヴさんをどうされたんですか?」

アーネストが繰り返す質問に、男爵は苦しそうに俯き両手で頭を抱えた。酔いも回っているのだと思うが、辛く苦い思い出をここで自ら語りたくはないという気持ちが、私には伝わってくる。

「そんなことは答えなくても分かるだろう……私はイヴを……嫌がるイヴを無理矢理……」

アダムス男爵を必要以上に厳しく問い詰めるアーネストを見かねたのだろう。ビニスティ氏が大きな声で一喝した。

「アーネストくん!君はもう帰る時間だ!!!」

ピリピリと空気が張り詰める。
これ以上不愉快極まりない質問を聞きたくないのだろう。ビニスティ氏が怒りに満ちた赤い小さな眼を吊り上げ、アーネストをじっと見詰めている。アーネストが灰色に濁った碧い眼で、表情ひとつ変えずビニスティ氏を見詰め返す。熱情と冷静の間で、静かな火花が散るのを私は見たような気がした。

「……確かに。そうですね」

アーネストが時計も見ずに静かに答え、グラスを置き、席から立ち上がった。去って行こうとするアーネストの後ろでアダムス男爵が弁解がましく叫んで、再び頭を抱え込んだ。

「しかし、私は悪くないはずだ!……何故なら私はイヴと結婚していたのだから!!!拒んだイヴが悪いのだ!!!」

アーネストはその声に振り向くでもなく、「失礼」とだけ言い残し、背中でバタンと扉を閉めた。

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