海運王と、夕食を

私たちを含め、被害者アーサー・アダムスの関係者たちが、夕食を取りに各々の部屋に帰るべく席を立ち、引き上げ始めたその時だった。

「君たち、もしよかったら食事に付き合ってくれんかね?」

男性にしては高めのよく通る大きな声が、私たちを呼び止めた。なんと恐れ多いことにサロモン・ビニスティが私たちに自ら声を掛けてきたのだ。
この成功者の申し出に、私は、はいはいと即座に返事することを躊躇《ためら》って、とりあえず笑顔を作って誤魔化した。

食事のお誘いはたいへん有り難いとは思う。ただ、この老年に差し掛かろうとしている紳士とは、年齢も住む世界もかけ離れすぎていて、会話をするにも、正直なところ何を話題にしていいのか見当がつかない。有名な権力者を前にして、緊張してしまい食事を美味しくは食べられないのではないかとも思う。

しかも、私は密航者だ。
こんなところにのこのこと連れ出されて来ているが、犯罪者である以上、できれば目立たないように隠れていたい。しかも、アーサー・アダムスの死体を第一に発見して見なかったことにしていることもバレないようにしたい。あらぬ殺人やら爆破テロやらの嫌疑を掛けられるのは御免蒙《ごめんこうむ》りたいのだ。

私は、アーネストはどう思っているだろうと、隣を見た。私を匿ってくれるぐらいなのだから、同じ反応を示しているのではないかと思ったのだが、それは大きな間違いだったと気づく。彼のほうは私と視線を合わせることもなく、まっすぐにビニスティ氏を見据え「もちろん、喜んで」とニコリともせず承諾した。

――まったく喜んでるように見えねぇし!!!

私は自分のピンチをさておき心の中でツッコんだ。マイペースに鉄面皮っぷりを発揮するこの男は一体何を考えているのか?

アーネストが答えるのを聞いて、ビニスティ氏のほうがニコリと微笑んで、「よかった。ありがとう」と礼を言った。

「……ここではどうも独りで食事を取るのが気が引けてね」

私たちはこの船で最上級とされるロイヤルスウィートルームに入った。
扉を入るとそこは通常の一等客室二個分ぐらい広いリビングダイニングになっている。天井には大きなシャンデリア、床には赤い絨毯に山吹色の模様が入った絨毯が敷かれている。その部屋の左側中央には大きな木製のテーブルが置かれていて、私たちはその前に着席した。この八人は座れるであろう大きなテーブルで一人で食事をするのは、贅沢である反面、確かに寂しいだろうという気がした。

「今回のご旅行では、ご家族は同行されなかったんですか?」

アーネストが尋ねる。

「ああ、もう両親はとうに死んでしまったし、兄弟もいない。私は結婚もしていないから、天涯孤独だ」

「ご結婚されていないとは意外です。もったないですね」

「……いやいや。ああでもないこうでもないと選り好みしていたらこの歳になってしまっただけさ。結婚はできる時がし時だよ、君たち」

「……まあ、いくつになっても妻を娶《めと》ったという話は聞きますから年齢は関係ないでしょう」

「いや、とは言えね、心から愛せる女性が現れた時は何があっても、そのチャンスは絶対に手離してはいけない。家柄や階級や経済状況、タイミング……諸々困難があるかもしれないが、そのたった一人の女性との出会いは奇跡的なものだ。仕事のチャンスは人生に何度かあっても、たった一人の運命的と言える女性との出会いは稀だ。何が起こっても手離すべきじゃない」

「そんな女性《ひと》がいたんですか?」

アーネストの問いにビニスティ氏が大きく頷いた。

「いたとも!なぜあの時、私は彼女を連れて逃げなかったのかと、後悔してもしきれない。今彼女が手に入るなら、これまで築いた全財産を擲《なげう》ってでも彼女を手に入れる。……つくづく自分は諦めの悪い男なのだと思い知らされるよ」

「その女性は今何を?」

アーネストの質問には答えず、ビニスティ氏が言葉を切る。

「……ありがとう、ポール」

老執事が食前酒をグラスに注《そそ》いでいく。どうやらビニスティ氏の執事はポールという名前のようだ。
グラスに注がれる黄金《こがね》色のシャンパンを眺めながら、私は、もしビニスティ氏が亡くなったら、彼の莫大な遺産はプランセール国庫に入るのだろうかと、ぼんやり下世話なことを考えた。

「君たちとの出会いに乾杯と行きたいところだが、今は祝杯をあげている状況ではないから……アーサーくんに献杯」

ビニスティ氏はグラスを静かに掲げた。私たちも唱和し、グラスを軽く傾ける。シャンパンの泡が広がり、芳醇な甘みが口を潤す。ビニスティ氏はその甘みをじっくりと噛み締めるように口の中を転がし、一言続けた。

「彼女は死んだよ。何年も、何十年も前にね」

アーサー・アダムスも亡くなった直後でもある。ビニスティ氏の遠くを見つめるようなその悲しげな表情を見て、人間の死を語ることがなんだか憚《はばか》られ、これ以上、ビニスティ氏の悲恋について突っ込んで聞く気は起きなかった。
せっかく食事を取るのだから、食事を美味しく食べられるような、何か別の話題に切り替えたい。

「……先ほど献杯しましたが、アーサーさんとはお知り合いですか?」

グラスをテーブルに置き、アーネストが口を開いた。

「……ああ」

ビニスティ氏が再び口に含んだ食前酒を飲み込んだ。喉に引っ掛かったのだろうか、一瞬表情が曇る。

「私が主宰する貧民救済の慈善事業にクレアが参加してくれてね。クレアにはよく手伝って貰っているんだ。その繋がりでアダムス男爵家とは面識がある。……とはいっても、アーサーくんとは一度挨拶したきりだが、父親に似て感情表現豊かな青年だったと記憶しているよ。握手の時も右手をぎゅっと硬く握った後……こう、強く引き寄せ、肩を抱き寄せられて歓待されたのを記憶している」

「ビニスティさんとお近づきになれるなんて、とても光栄ですからね」

私が相槌《あいづち》を挟む。我ながら太鼓持ちが過ぎて嫌味だろうかと思ったが、ビニスティ氏はニコッと笑って「ありがとう」と言ってくれた。
この一言と私に向けられた微笑みで、有名人と対面して食事するという何だか格式ばった儀式に、少し緊張も解《ほぐ》れた気もする。

「クレアさんとはもっと交流があるんですか?」

アーネストが質問を続ける。

「ああ、私が行けるときだから、月一回ぐらいかもしれない。でも定期的には顔を合わせているよ。救貧院に毎週日曜日の炊き出しに行くのを手伝ってくれていてね。貧しい子供たちにスープを振る舞うんだ。アーサーくんにも準備に人を寄越してもらったこともある」

「あんなに愛らしくて優しいなんて、まるで天使のようですね」

私の相槌にビニスティ氏が賛同する。

「まさにそうだ。天使というより聖母《マドンナ》かもしれない。掃き溜めに鶴と言えばいいのか……そんなことを言っては他の女性に叱られるかもしれないが、身を粉にして貧民街で働く彼女はいっそう輝いて見える」

路地は狭く、太陽の光があまり差し込まない薄暗い、黒く汚れた貧民街で、たくさんの人々に囲まれ、甲斐甲斐しく働くクレアを想像した。清楚な水色のドレスを着て、栗色の髪をまた水色のレースのリボンで結わえているクレアが、ほんのりと紅潮した頬にえくぼを浮かべ子供たちに微笑みかける姿は、確かに天使というよりも聖母《マドンナ》に近い。

「そんな彼女を花嫁として迎えられる男は本当に幸せでしょうね」

何気ない私の一言に、ビニスティ氏が口を一文字に結び、眉間に皺を寄せて眉を吊り上げた。そのつぶらな瞳に怒気を宿した光が灯る。明らかに賛同しかねるといった顔だ。

「……マテュー・モランはもちろん悪い男ではないが、クレアは少しもったいないかもしれない」

ビニスティ氏が他人を悪く言うことに、私は少し驚いた。ほぼ初対面の赤の他人に言うぐらいだから余程腹に据えかねているのかもしれない。

「男爵家のご令嬢をもらうのには家柄としては申し分ない。経済力もある。優しい男だし、見た目も悪くない。結婚相手として、彼自身に非がある訳ではないのだが、クレア本人が納得しているのとは別ということもある」

「それはクレアさん自身が乗り気ではないということですね?」

アーネストの言葉にビニスティ氏が二度強く首を縦に振り、咳払いをした。

「それはまたどうして?」

「それは……『たった一人の女性との出会いは奇跡的なものだ』というのはまた、女性にも当てはまるということだよ」

「つまり、別に愛する男性がいるということですか?」

食事が運ばれてくる。
紺のラインに金色の縁飾りのついた大きな皿の中央に円を描くようにこんもりと盛りつけられた白身魚の前菜に、周囲を彩るオレンジのソースを絡める。フォークとナイフでその美しい造詣を崩していくのがもったいないが、そうしないとおいしく食べられない。こういう破壊の瞬間を伴う「料理」という創造物に、儚さとその完成の瞬間を感じ、芸術性を私は感じることがある。

ビニスティ氏はアーネストの質問に大きく縦に頷くかたちで返しながら、私たちの方に質問を投げ掛けた。

「……ところで、君たちはなぜこの船に乗船を?」

ビニスティ氏のこの質問に、私は料理を口に運ぶ手を止める。

――密航者であることがバレないか?

慎重に言葉を選んで返答する必要があると思ってドキドキしていると、アーネストが会話を進めた。

「ドウヨが祖国に帰ると言うので。物見遊山に着いてきたんです」

「なるほど」

ビニスティ氏は食事をする手をちょっと止めて私の方に視線を向けた。小さな眼をさらに細めて穏やかに尋ねる。目元にくしゃりとできる皺が優しげだ。

「君はプランセール出身なのかね?場所は?」

「パリです」

「パリのどの辺りかね?」

「バスティア地区なので下町です。父は三文小説家で、私は下町の小さな家で育ちました」

「ふうん。君自身は何をしているの?」

「私は……父の跡を継いだようなものです。売れない劇作家です」

「劇作家!…ほう、それはすごい。機会があれば観てみたいものだ。舞台のプロデュースをしている人もを何人か知っているから、よかったら紹介してあげよう」

「あ……」

まさかの申し出に私は驚きと嬉しさのあまりあんぐりと口を開け、言葉を詰まらせた。

「ありがとうございます!!!」

――密航もしてみるものだ!
素晴らしい巡り合わせに歓喜して礼を言う私を見て、ビニスティ氏は二、三度頷きながらニコニコしている。

メインディッシュが運ばれてくる。
食事がなお旨い。
ナイフで押さえるだけでほろほろ崩れる柔らかな牛の頬肉を口に含み、赤ワインでそれを胃袋に流し込んでいく。

「ご兄弟はいるの?」

「一人っ子です」

「そりゃ、ご両親は君が帰ってくるのを喜ぶだろうね」

「いえ、それが……」

私は口に放り込んだ牛肉を飲み込んで続けた。

「父はプランセールの帝政に反対していたためギベールに亡命中ですし、母は私が物心ついた時にはすでにいませんでした。だから帰っても一人なんですよ。部屋が空いてるので、アーネストがうちに泊まっても問題ないんです」

名前を口に出されたアーネストは我関せずの姿勢で皿の上にのったじゃがいもを優雅に切って口に運んでいる。

「お母さまは早くに亡くなったのかね?」

「……いえ、父は逃げられたんだと笑って話してました。女癖が悪いから、本当に逃げられたんだと思います」

私は苦笑して見せた。
付け合わせのクレソンをナイフで切ろうと格闘している私をビニスティ氏が少し眉根を歪ませて見ている。憐れんでいるのかも知れないが、すでに19年間そうして生きてきている身としてはどうということはない。母は自分の人生を幸せに生きているのだと信じているし、父は私を男手ひとつで立派に育てたのだから大したものだ。女癖の悪さ以外は尊敬している。

腹一杯飲み食いし、ほろ酔い気分のいい気持ちだ。イェゴスでの遊学の成果を話したり、今話題のイプセン演劇の話を聞くこともできて上機嫌だ。
食後出されたアマレットの香りと甘みを楽しみながら、話題も尽きて一段落した頃合いに、アーネストが久々に口を開いた。

「ちなみに、昨日ビニスティさんは部屋にお一人だったんですか?」

「私は……」

ビニスティ氏は氷を溶かすようにグラスを回しながら、長い眉を吊り上げて首をかしげ、再び眉を降ろして答えた。

「昨夜は、ひとりで食事をとり、ひとりで本を読み……あれは何時ごろだったかな?深夜2時頃だったと思う。今日午前中に話した例の爆破テロ予告が無線電報で届いたと言って、フラビエール船長が真っ青になってこの部屋に駆け込んできて叩き起こされてからは……警察に連絡したり、今後の対策を考えたりで、もうてんやわんやだったよ」

「ではあまり昨夜は眠れていないんですね。……ちなみに無線電報には何と書かれていたんですか?」

「電報には『ダイナマイトを仕掛けた。爆破されたくなかったら船の運行を停めろ』とあったと思う。その当時は悪戯《いたずら》かもしれないとは思ったが、万一のことがあるからね」

ビニスティ氏の悪い予感は当たっていたようだ。現にダイナマイトが見つかったのだし、念には念を入れた判断が正しかったのだと思う。私はビニスティ氏に敬服し、同情した。

「……そうですね。今回は酷い事件に巻き込まれましたね」

「そうだね。乗客を足留めして申し訳ないと思っているけれども、この船に乗っている全員が人質であると考えると迂闊《うかつ》には行動できない。犯人が早く見つかることを祈っているよ」

「本当に犯人が早く見つかるといいですね」

気の毒そうに私が話した言葉にアーネストも横で黙って頷いていた。
時計は22時を回っている。そろそろいい時間だ。私たちはビニスティ氏に今夜の礼を言い、自室へと戻った。

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