結ばれる運命

ビニスティ氏とサラの告白を受けた後、私たちはそれぞれ別室でデュムーリエ警部とフィデール刑事に一応の事情聴取を受けた。それはほとんど簡易的であり形式的なものだった。
この個別の事情聴取も終え、アーネストと私が捜査本部になっている部屋を後にし、自室に戻って落ち着いたのは朝5時になろうとしていた。
船窓から見える濃紺色の未明の空には小さくではあるがハッキリと星が瞬《またた》いている。煌《きら》めく星を背にして、細い月が海上に白い光を静かに落としていた。月光が波間にゆらゆらと揺れている。美しい星月夜だった。

昨夕からずっと我慢していたのだろう。アーネストが煙草を吸いたいと言うので、私たちは806号室を再びそっと抜け出した。なるべく音をたてないように長い廊下を無言で歩き、階段を三つ昇る。喫煙室に向かうべく食堂を通り抜けようとしていた時だった。

――ガラガラガラガラガラガラガラガラ……ガタンガタン

錨の上がる大きな音が響いてきた。ギッシギッシと船が数回軋む音がして、左右に大きく揺れる。船を騒がせた爆破テロ予告及び殺人事件の容疑者が捕まり、三日間も海上に停泊していた船が動き始めたようだ。ざあざあと船が波を切る音が聞こ始めた。

食堂から甲板へと続く大きな窓が開いているようだ。窓際に掛かったカーテンが少し揺れていた。夜明け前の風で肌寒い。ようやく動き出した船に入ってくる潮風がなおのこと身体に堪《こた》える。
窓を閉めようと窓辺に近づくと、カーテンの際に、窓枠に寄り添う見覚えのある一組の男女の姿が見えた。体格のよい長身の男性の腕に抱かれた女性は美しい栗色の毛を肩まで垂らしている。男の黒い服の向こうから薄い黄緑色のドレスが、月光の下で風に揺れているのがチラチラと眼に留まった。
男の胸に身を預けている女の白い顔をよく見ると、果たしてそれはクレアである。となるとスタイルのよい長身の男性はクレイグだ。クレイグはクレアをその逞《たくま》しい左腕に抱き、窓枠の右側に凭《もた》れかかっていた。

船は先程出発した。
このまま順調に航行し、プランセールに到着したらクレアはマテューと正式に婚約してしまう。到着までの残された、二人だけの短い時間を、邪魔してはいけないと私は思った。ここは二人を見なかったことにして通り過ぎようとした私の耳に、クレイグがボソボソと低い声で話しているのが風に乗って聞こえてきた。

「……ビニスティさん……父?……父と言っていいんだろうか?……まだビニスティさんが僕の父親だっただなんて信じられないし、この呼び方にはまだ全く馴染めていないのだけれど……。父が君の家族に大変な苦痛を与えてしまったね……ごめん。心から謝らせてほしい」

男の声が途切れると少しして、鈴の音のような可憐な女の声が微かに聞こえた。

「……いいえ、貴方はビニスティさまが自分のお父様だとは知らなかったのだし……手段はとても恐ろしいものでしたけれど、ビニスティさまはビニスティさまなりに私たちのことを思ってくれていたのだし。それに貴方は私の父を救ってくれたわ。お礼は言っても私、貴方のことを責めたりなんてできないわ」

寝物語のように二人の会話は極めて緩慢としていた。お互いの話をゆっくりと噛み締めては味わい、また大切に返事をするといった具合だ。

「ありがとう。……そう言ってくれるなら心が救われるよ」

「いいえ。貴方は本当に知らなかったことですもの」

会話が途切れる。波の音がざあざあと響き、時たま波が船を軋ませる音が混じった。雲一つない空には満点の星が輝いている。月光にクレイグとクレアの顔が青白く照らされていた。
暫《しばら》くの無言の後、男がちょっと深呼吸して思い切ったように切り出した。

「……クレア、僕からもうひとつ、今言わせてもらってもいい?」

「ええ。何?」

男の胸の中で、女がうっとりと半分眼を閉じ、夢見心地に尋ねた。

「今、言うことではないということは分かっている。分かっているのだけれど……今、君がプランセールに去ってしまう前に言わせてほしい……言わなくちゃ……」

クレイグは今にも口づけを交わしてしまいそうな近さまでクレアの耳許に唇を近づけ囁いた。

「クレア……僕と結婚してくれないか?」

クレイグのプロポーズを受けた瞬間のクレアの顔は見えなかった。
クレアは両手を口許に当て、驚いたようにクレイグの胸から身を離し、じっとクレイグの眼を見詰めている。クレアの頬がみるみる紅潮し瞳が涙で潤んでいくのが、私からも分かった。クレアの薄紅色の唇から白い歯が溢れる。あまりの嬉しさからか、クレアは言葉をすぐには発せず、震えながらクレイグに向かって二、三度無言で頷いた。

「……僕と結婚してくれる?」

クレアの口からハッキリとした返答が聞きたかったのだろう。クレイグが再び尋ねた。クレアは「はい」と一度小さな声で答えた後、「……はい!」と再度喜びを伝えるかのように大きな声で承諾の意向を思い切って伝えた。感極まったクレアの眼からは大粒の涙が溢れる。
女のしっかりとした返事を聞くや、クレイグも笑みを浮かべ、クレアの背中に両腕を回し、力一杯彼女を抱き締めた。

潮騒の音だけが響いていた。タッセルでとめられたカーテンの房が風で微かに揺れている。
クレアがクレイグの胸の中で顔を上げ、瞳を閉じ、肌を寄せた。クレイグは女の口許に唇を近づけ、ちょっと躊躇した後、思い切って口づけをした。
東の空から朝日がぬっと現れる。空が白む。口づけを交わす恋人たちの黒い影の間から朝日が幾筋もの眩しい閃光となって漏れた。床に落ちた長い影がすうっと伸びていく。微《かす》かに瞬いていた遠くの星の光が、薄紫色から黄色、白へグラデーションに染まった空のうちに消えていった。夜明けだ。

――そのたった一人の女性との出会いは奇跡的なものだ

希望に満ちた若い二人を照らし出す新しい朝の光の中、私はビニスティ氏が強く語っていた言葉を思い出した。お互いの『たった一人』を見つけた男女の奇跡的な瞬間を、私は今、目の当たりにしている。
食堂の壁面では、知恵の実を片手に掲げた『楽園のイヴ《イヴ・ド・パラディ》』も最高の微笑みを浮かべて、この美しい光景を見下ろしていた。アダムス男爵の元へ嫁ぐ前、ビニスティ氏の腕の中で幸せな笑みを浮かべていたのであろうイヴが、今この瞬間のクレアに重なって絵画のように永遠のものになろうとしている。失われた楽園が、今ここに取り戻されたのだ。

「おめでとう!!!」

――祝福せずにはいられない!

この若い二人の新しい門出に、私は嬉しくなって思わず手を打ち鳴らした。私たち以外には誰もいない食堂に突然響いた拍手の音に、二人が吃驚《びっくり》した表情でこちらを振り向いた。恥ずかしそうに耳まで赤くして頭を掻くクレイグの横で、クレアももじもじと身を竦《すく》めて俯いた。

「こんな時間にお二人がいたなんて気づかず……またお恥ずかしいところをお見せしました」

クレイグが口角を上げ、歯を見せながら言った。心からの嬉しさで自然と笑みが込み上げてくるのだろう。クレアからも笑みが溢れている。

「恥ずかしいだなんてとんでもない!とても幸せな瞬間に立ち会えて光栄だ!」

はしゃいでクレイグに話し掛ける私の横で、アーネストも片手に愛用のベントパイプを持ち、二人の姿を見ながら、口許を緩ませていた。表情が心なしか柔らかい。こちらに歩み寄ってくる二人に「おめでとう」と声を掛けた。「ありがとうございます」と丁寧に答えるクレイグと握手を交わす。

私たちと話すことで、クレイグとの二人だけの楽園から現実の世界へ引き戻されて思い出したのかもしれない。クレアは込み上げてくる笑顔を崩して、表情を少し曇らせた。

「私、マテューには謝らないと………マテューとの婚約は辞退しなくてはいけないわ」

私は、あの大きな頭をゆらゆらと揺らしながら残念がるマテュー・モランの顔を思い描いた。婚約が破談になることで、アダムス男爵の遺産も手に入らず、男としてのプライドまで傷つけられ内心腸《はらわた》が煮え繰り返る思いでも、眉を八の字に曲げて遺憾の意は伝えながら、次の言葉ではふにゃふにゃとにこやかな笑顔を見せながら「君の幸せを遠くから祈っています」などと宣《のたま》う姿が容易に想像できた。
クレイグもちょっと険しい顔をして頷く。

「アダムス男爵にも結婚の許しを乞わないといけませんね」

しかしながら存外口調は気楽である。さらりと言葉を切った。
クレイグの口から「アダムス男爵」という名前を聞き、クレアの顔が一層心配そうな色を帯びる。彼女は半分泣きそうに表情を八の字に歪め、隣に立っているクレイグに訴えた。

「……もしも。……もしも、お父様が私たちの結婚に反対したらどうしましょう?」

不安そうなクレアとは裏腹に、クレイグの表情は屈託のないものに変わった。彼は大きな笑みを浮かべ、真っ直ぐにクレアの顔を見、力強くきっぱりと男らしい口調で言い切る。

「その時は……君を連れて逃げるよ、どこまでも。コーヌさんが前に僕に言ってくれたけど……駆け落ちしよう、クレア。新大陸にでももっと南の島国でも!……着いてきてくれる?」

クレアは口に手を当て眼を見開き、クレイグの顔をまじまじと無言で見詰めた。無言なのはもちろん駆け落ちについて逡巡《しゅんじゅん》していたからではない。クレイグの思い切った申し出に驚いたのと、そこまで自分のことを思ってくれているのであるという嬉しさが、即座に言葉にならなかったのだ。

「……はい」

ようやく絞り出した掠《かす》れた声でクレアが呟く。クレイグが力強く頷いた。

「はい!……はい!」

クレアは二度頷いて笑った。
二人は、アーネストと私の目の前で、再び抱き合い、口づけを交わしそうな近さまで顔を近付けて見詰め合っていた。

もはや世界は二人のものだ。
邪魔者は去った方がいい。アーネストと私はどちらともなくそっと目配せして場を離れ、喫煙室へと歩を進めた。

 

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