「無限」の始まりは、終着駅から

「お客さん、終点ですよ」

高めの鼻にかかった掠《かす》れた声だ。聞いていて心地くはない声で話し掛けられ、重たい瞼ををゆっくりと開けると、目の前に駅員がいた。
駅員は黒縁眼鏡をかけた色白の痩せた男だ。濃紺色の制服の布地が腰の辺りでぶかぶかと余っている。

電車の座席の一番端で、ポールに凭《もた》れかかって、大口を開けて寝ていた僕は、ビクリと全身を大きく震わせて飛び起きて、背後の開いたドアからホームに表示された駅名を確認した。

――しまった……寝過ごした!

表示板の「多月《おおつき》」という駅名を見て愕然とする。
僕は駅員に起こしてもらった礼を言い、吊革に捕まりながら、縺《もつ》れる足をなんとか前に動かして電車からホームに降りた。頭がずきんずきんと痛み、胃の中が引っ掻き回されたかのように、胸焼けがする。ホームの自動販売機で水を買い、一口飲んだ後、その脇にしゃがみこんだ。

今夜は仙台への転勤が決まった僕の送別会だった。自分のために送別会を開いてくれているのだから三次会まで付き合って、調子にのった。本当はあまり飲めない酒をチャンポンして飲んだのがよくない。ビールを飲んで、ハイボール、焼酎、そして最後には日本酒まで飲んでしまった。
久々にベロベロに酔っ払った僕は、電車でぐっすり寝入ってしまい、降りるはずだった嵋高《みたか》駅をすっかり乗り過ごして、終着駅まで来てしまった。
昇りの電車はすでになく、タクシーに乗って家まで帰るには遠距離だ。三万円は確実にかかってしまうだろう。帰りのタクシー代に三万円もかかるのなら近くのホテルに泊まって始発電車で家に帰った方が安上がりだ。そう思った僕は、今夜は帰らず、駅近くにホテルを探して泊まって行くことに決めた。

多月駅に降り立ったのは、今夜が初めてだ。多月は東京との県境を越え、山梨県にある。僕は想像の中でどんな山の中の駅なんだろうと思っていたが、駅前は思ったより開けていた。ロータリーに出るとタクシー乗り場があった。そこには終電で帰った人がタクシーを待つ長い列ができており、その人を待っていたタクシーが順繰りに流れていた。
初めての土地で僕は途方に暮れた。ホテルの場所は見当がつかないし、歩いて探そうにも千鳥足で思うように足が動かない。第一眠い。ここはとりあえずタクシーに乗り、運転手さんに近くのホテルまで乗せて行って貰おうと思った。

タクシーが、「ホテル オーツキ」と縦に水色の安っぽいネオンサインで書かれた白いビルの前に止まる。耐震基準を満たしているのか疑わしいぐらい古めかしいビルだ。壁は黄ばんでいて、所々に黒いひび割れもある。
漫画喫茶やカラオケ店に泊まるよりは楽に仮眠が取れたらいいと思っていた僕は、きれいで上等すぎない、この田舎らしい安ホテルがちょうどいいと思った。
玄関の自動扉を入るとすぐ右手にあるフロントは薄暗く、白い蛍光灯に照らし出されていた。銀縁眼鏡を掛け、黒いスーツに蝶ネクタイをつけたホテルマンが独りポツンと立っている。目は細く、もちもちとした血色のいい頬が印象的な人の良さそうな男だ。髪は染めているのだろう。艶がなく、やけに黒々としている。

「こんな夜中にすみません。酔っ払いなんですけど……部屋空いてますかね?」

ホテルマンはハハと笑って「少々お待ちを」と言い、空き部屋を調べてくれた。部屋は空いているようだ。背後の箱から細長い四角形のプラスチック製キーホルダーのついた鍵を取り出し「ここに、お名前とお電話番号とご住所を……」と宿帳を出して続けた。
僕は言われるがまま、ペンを手に取り、宿帳に名前などを書き、鍵を受け取った。鍵には603と黒い丸ゴシック体で書かれている。

エレベーターで6階まで上がり、廊下を真っ直ぐ進んで3番目の部屋が603号室だった。廊下はフロントと同じく薄暗い蛍光灯で照らされているだけで埃っぽい。
僕は部屋に入ると、電気も着けずに奥のトイレに入り込み、指を舌の奥に突っ込んで自分で嘔吐した。吐けば頭痛も少しは納まると思ったのだ。手が痺れている。これは危ない。意識こそあるが急性アルコール中毒を起こしているのかなとも思った。
そんな状況だったから、僕は着替えもろくにできずにベッドにすぐに横になった。アルコールの影響で身体は朦朧として重いのだが、意識は案外覚醒している。
ぐっすり寝たら楽になる。そう思って目を閉じ、寝ようと努力しているうちに、うつらうつらと浅い眠りの中に落ちていくような気がした。

夢現《ゆめうつつ》の中、僕は自分の送別会にいた。幹事の堀川が選んだ焼き鳥屋は明るい木目を基調とした清潔のある店で雰囲気がよかった。料理もうまい。周りの卓も送別会をしているのか店内は騒がしかったが、卓と卓との間隔は充分に取られており、雑然とした雰囲気はない。
正面には本部長が薄くなった髪の毛を後ろにワックスで撫で付け、猫のようにふにゃっとした笑顔で座っている。僕の隣には大きな黒い瞳をくりくりと動かしながら、本部長の話にうまい相槌を打って場を盛り上げる芝田さんが座っていた。
普段から飲むペースの早い芝田さんは気が利く。自分がビールを頼むついでに僕にも酒を勧めてくるので、僕もついつい同じようなペースでビールとハイボールを煽り、遂には本部長が飲むのに合わせて焼酎を飲んだ。
二次会はカラオケで、本部長が米津玄師を歌っている。相も変わらず選曲が若い。僕がこの部署に異動してきた三年前は三代目J Soul Brothersを歌っていた。今時の曲をそんなに知らない僕はタンバリン片手にハイボールを飲む。
二時間歌い通しに歌った後も、飲み足りないということでまだ開いている居酒屋に入り、ちびりちびりと日本酒を冷やで飲んだ。
普段は二次会ぐらいで帰ってしまうのだが、今回は自分が主役だ。それに永遠の別れではないが、この部署の仲間と共に飲むのも最後であると思うと寂しい。

あっという間に終電の時間が迫ってきて、僕らはベロンベロンになりながら、各々慌てて帰りの電車に飛び乗った――。

「お客さん、終点ですよ」

高めの鼻にかかった掠《かす》れた声だ。聞いていて心地くはない声で話し掛けられ、重たい瞼ををゆっくりと開けると、目の前に駅員がいた。

 

| »
Tweet