黒い噂

この船の乗客たちは各々自室待機を命じられているものだと思っていたが、喫煙室にはちらほらと煙草を吸う紳士たちが集まってきていて、 立ったままの者やソファに腰掛ける者など銘々好きな格好で煙草をふかしていた。
ゆらゆらと揺れる煙草の煙が立ち込めるなか、私は入り口近くのソファに、アーネストは私より奥のソファに座った。クレイグは、私たちのちょうど真ん中に立ち、マッチを擦る。アーネストは「ありがとう」と言ってパイプに火をつけ、うまそうでもまずそうでもなく、空気のようにぷかぷか吸い始めた。

「コーヌさんは煙草は吸わないんですか?」

「煙草は吸わないです、ありがとう」

もう1本マッチを擦ろうとするクレイグに私はお礼を言って断った。

紳士たちの話している話題に耳を澄ませてみると、船はなぜ停まってしまったのか?いつになったら動くのか?プランセールへの到着はどのぐらい遅れるのか?といった、不満と不安と怒りに満ちたものが大半だったが、船内ではどうしようもない。彼らはやり場のないネガティブな感情をぶつける体力と精神力は温存し、ただ一様に疲れた様子だけを見せ、それを癒すかのように煙草を吹かしていた。不平不満は沸々と確実に渦巻いてはいるが、パニックが起こる気配はない。
ここにいる人々はみんな、自分が爆破テロの人質になっているとは気づいていないから、こんなに平和にのんびりと煙草を吸って落ち着いていられるのだろうとも思える。

――アダムス男爵はどこにいるのだろう?

室内をキョロキョロと見渡すと、もくもくと白い筋状の煙が何本も上がる向こう。部屋のほぼ中央のソファに腰掛けているアダムス男爵とマテュー・モランを見つけた。
相手方は気がついてはいない。
アダムス男爵は笑顔でなにか一言マテューに話しては煙草を一吸い吸って、一吸い吸っては一言話して、笑っていた。

今後護衛することでもあるし、挨拶しに行こうかとも思ったが、アーネストを見てまた怒り狂うのではないかと思ったのもある。あと、単純に二人の歓談の邪魔をしてはいけないのではないかと思う。話し掛けるならば、しばらく様子を見た方がいいだろうと結論づけたその時、クレイグが私たちにアダムス男爵の居所を紹介した。

「男爵は……ほら、あそこ。奥にいますよ」

「あ。……ああ」

教えてくれたクレイグに、すでに自分で気づいていたとは言えず、私は生返事を返した。アーネストは返事の代わりに、口から煙を一筋ふーっと吐き出した。ゆっくりしたものだ。

「挨拶に行きますか?」

クレイグの申し出を断る理由がなく、私たちが席を立ち、アダムス男爵とモラン氏のところへと歩を進めようとした時である。アダムス男爵がこちらを振り向いた。我々と目が合う。

にこやかな笑顔をモラン氏に向けていたアダムス男爵は、アーネストの姿を認めるやいなや、煙を鼻から勢いよく吐きながら、元々大きな目をさらに丸くして、部屋の中心から大きな声で怒鳴った。

「……貴様よくも、私の目の前に姿を見せることができたな!!!出ていけ!!!」

これには喫煙室にいた紳士たち全員が驚き、一斉にアダムス男爵の方を見た。
私たちを紹介しようとしていたクレイグも、ビクリと身をこわばらせて、その場に立ち竦《すく》んでいる。

アーネストは間男ではあるが、アダムス氏の妻を寝取ったのではなく、アダムス氏の愛人を寝取ったのである。情婦の情夫なだけであって、そもそも、情婦を他に作っている男爵も同じようなものなのだから、そんなに怒ることないのに、と私は思っているが、アーネストもアーネストである。アダムス男爵の怒りの炎に油を注ぐような一言を述べた。

「……ボーフォートさんとは一回こっきりの契約ですよ。ご安心を」

アダムス男爵は一瞬意味が分からないといった様子でポカンとしたが、すぐに「一回こっきりの《《愛人契約》》だ」と言っていることに気づいたようだ。
みるみるうちに顔が赤くなる。頭から蒸気が出そうな勢いだ。

「……貴様っ!私を愚弄にするのもいい加減にしろ!!!」

部屋の真ん中から猪のように真っ直ぐにアーネストのほうに突進しようとするアダムス男爵を、モラン氏と私が一斉に止めにかかる。

「私はイェゴス征服の時代から続く家系の家柄であって貴様のようなどこの馬の骨とも知れない男ではないのだ……!!!貴様のような間男などここになおれ!!!殺してやる!!!……殺してやる!!!」

「……まあまあまあまあ!アダムス男爵!落ち着いてください!!!アダムス男爵ともあろうお方が手をあげるほどのこともない男ですよ!!!」

激昂して、じたばたと手足を振り上げるアダムス男爵を背後から羽交い締めにしながら、モラン氏が宥《なだ》めにかかる。
私も駆けつけ、前からアダムス男爵を抑えながら、モラン氏に同調した。

「そうです!こんな男を相手にするだけであなたの名誉に傷がつきます。ボーフォートさんには近づかないように、私も気をつけて見張ってますから、ここはどうぞお納めください!!!」

アダムス男爵の力任せに突進しようとする馬力が弱まる。癇癪《かんしゃく》を起こして血が昇った頭を落ち着かせるためか、アダムス男爵はぷはっと大きく深呼吸した。

「……まったく!!!」

吐き捨てるように悪態をつき、アダムス男爵は身を退いた。

「近頃の若いもんは謝ることを知らんようだ……!」

どうやらアダムス男爵は、火にかけたやかんのように熱しやすく冷めやすい人物らしい。ぶつくさと文句を言っているうちに落ち着いてきたようだ。

「今日のところはマテューと……君、名はなんと言ったかな?」

「ドウヨ・ノエル=コーヌです」

「ドウヨくんの顔に免じて許してやるが、今度同じようなことがあった時は……」

竜頭蛇尾に完結しようとしている怒りの余韻に決着をつけるべく、男爵は、はぁと大きく息を吐いた。

「殺されても仕方がないと思え!!!」

アダムス男爵がキッとこちらを睨んだものだから、私は思わず「申し訳ございませんでした!」と言いながらペコリと頭を下げた。
頭を90度に下げながら、斜め後ろにいるアーネストに脚の横から目を向けると、身じろぎもせず突っ立っていたものだから、私は姿勢を戻して後退《あとずさ》りしアーネストの隣に行くと、頭を無理矢理押さえつけて下げさせ、「この度は本当に申し訳ございませんでした!!!」と、再度深々とお辞儀をした。

「ふんっ……行くぞ!クレイグ!!!」

無理矢理にではあったが、一応アーネストに頭を下げさせたのに満足したのか、アダムス男爵はクレイグを伴い、喫煙室の扉をバタンと勢いよく閉めて出ていく。きちんと謝罪さえすれば許してくれる人のようだ。

私はその音を聞いて頭を上げ、はあとひとつため息をついた。無理矢理頭を押さえつけられて、頭を下げさせられたアーネストはみだれた髪を調えるのに、頭を横に振って手櫛《てぐし》を雑に通していた。

――ああ……こんな状態でアーネストに護衛が勤まるのか……

不安しかない。

「……いやいや。『殺してやる!!!』とは穏やかではありませんでしたね。アダムス男爵は頭にカッと血が昇りやすいものですから、気を付けなければなりません」

アダムス男爵の未来の娘婿が、鼻までずれた丸眼鏡をかけ直しながら、やれやれと肩を落として、私たちに話し掛けてきた。
マテュー・モランは手を口元にあてニコニコとはしているが、優しげな仕草と表情が「優しげ」を通り越して、男性にしてはフェミニンな印象である。

「いや、アーネストもアーネストだよ。女をナンパするにせよ、相手は選ばなきゃ。あんな怖い男もいるんだから、いつか怪我するぜ」

「……いやだから、一回こっきりのことだったし。そもそもアンジェリカから誘ってきたんだし」

「モテるんですねぇ。羨ましい」

モラン氏が変なところでアーネストに感心して笑った。

「誘われたにしても、事に及ぶ前に選んだ方がいい」

私は、我ながらするどい忠告をしたと思ってアーネストの方を見たが、言われた本人は我関せずといったような、いつもの無表情を決め込んで、マッチを擦り再びパイプに火をつけていた。

「ハハッ!確かに」

モラン氏が眼鏡の柄の部分を上にくいと上げながら、私に相槌を打った後、急に真剣な面持ちになった。

「……確かにアダムス男爵のお妾《めかけ》さんに手を出すことになったのは不運だったかもしれないです。彼は危険人物としてパリの社交界の一部では有名ですからね」

「危険人物?」

鸚鵡返しに聞き返した私に、モラン氏がヒソヒソと声を落として話し始める。

「そうです。なんでもアダムス男爵は、前妻さんを怒りのあまり殺してしまっただとかなんとか、噂されることもあるんですよ。公《おおやけ》にはご病気で亡くなったとのことですから、これは都市伝説的なもので、実際手を下さなかったとは思いますが、あの癇癪と執念深さですから、前妻さんも苦労はされたかもしれませんね」

アダムス男爵の前妻でアーサーの母親である『イヴの秘密』について情報が得られたのはよかったが、私はなんだかこの男の、陰で人を貶《おとし》めるような汚いやり方が、何とはなしに女々しい気がして、アダムス男爵の肩を持ちたくなった。

「でも、癇癪さえ起こさせなければ問題ないでしょう。カッとしやすい性格の人物なだけであって。……あまりいい性格とも言えませんが」

「いや、それが前妻さんとはうまくいってなかったことは確かなようですよ?……僕は見てきたわけではありませんから何ともですがね。どうやら前妻の方の望まれる結婚ではなかったようで……。前妻さんには他に想いを寄せる男性がいたようです」

「……ふうん」

前にもどこかで聞いたような話だ。
私は食堂で見たクレアとクレイグの姿を思い出していた。ご自分の婚約者にも別に愛する男がいて、あなたとの婚約には前向きではないようですがね、と意地悪を言いたくなるのを、私はグッと我慢した。

「前妻さんが想いを寄せる男性とは誰だったんでしょう?」

「……さあ?そこまでは知りません。…あくまでも噂ですよ、う・わ・さ」

モラン氏は口に手をあて、大きな頭をゆらゆら揺らしながら、ふふふと眼を細めて笑った。

「そうなんですね。
モランさんはまたなんで、そんな曰く付きの男爵の娘さんをもらおうと思ったんですか?……やっぱり愛は勝つんですかね?」

「ロマンチストですね。……そうですね、愛は勝ちます」

モラン氏はさらに眼を細めて満面の笑みを見せた。白い歯が溢れる。思いの外きれいな歯並びをしていることに驚いたし、同時にちょっとわざとらしい笑顔であるような気がした。腹の底では何を考えているのか分からない。モラン氏が続ける。

「政情的にも経済的にもプランセールよりは安定してますし、今の時代、イェゴスに繋がりを持っておくに越したことありませんしね」

――それにアーサーが亡くなった今、後々アダムス男爵の遺産がすべて転がり込んでくる

モラン氏はその柔和すぎる笑顔の下で、こんなことを思っているんじゃないかと憶測した。

「今後はアダムス男爵が私の義理の父になりますからね。僕にもひとつ苦労の種が増えそうですよ。……おや、珍客が来ましたよ」

モラン氏の言葉で扉の方を見ると、この紳士だらけの喫煙室に一際眼を引く女性が現れた。男性しかいない談話室に女性というだけで目立つのに、真紅のドレスを着こなした彼女は、魔性とも言える官能的な魅力をこれでもかというほど放っている。唇はなお紅い。黒髪をアップに結い上げ、白いスッとしたうなじがまた情欲をそそる。
アンジェリカ・ボーフォートは、悠然と部屋の中央を歩いて、私たちの所までやって来て言った。

「どなたか火を貸してくださらない?」

モラン氏がマッチを取り出し、アンジェリカの煙草に火をつけた。彼女の長い睫毛が頬に陰を落としていた。
彼女はモラン氏に礼を言い、煙草を二、三吸い吸った後、口を開いた。

「何を話してらっしゃったの?」

なんと話すべきか迷ったのだろう。モラン氏は一瞬無表情になって、すぐにまた柔らかな笑顔を作って話し出した。

「あ、ああ……アダムス男爵のことをちょっとね」

「アダムス男爵のどんな話?」

「……いや、癇癪持ちだという話です。実は先程までアダムス男爵がいて、バートラムさんを見るなり、また激昂して怒鳴りつけてたんですよ。あなたの件がまだ尾を引いていたみたいですよ。二人の男を争わせるだなんてあなたも罪な人だ」

「あら。私、アーネストとは遊んだだけよ。ねぇ、そうでしょ?」

アーネストに同意を求めるアンジェリカの持っている煙草から灰が落ちた。煙草を挟んでいる白い指がまた細長くて優美だ。爪にはマニキュアが紅く塗られていた。
アーネストは黙って頷いた。

「いや、遊んじゃいけないでしょ」

私は呆れてついつい口を挟んでしまった。
アンジェリカが私の方に向き直り、そのエメラルドグリーンの眼でじっと見つめてきた。瞳は潤んでおり、キラキラと輝いていた。

「あなた、真面目なのね。真面目な人は好きよ。アルベルトはまるで真面目じゃないの……私、寂しいんだわ。アルベルトは夫人と正式に離婚してくれないし。男性には不倫が許されて、女性の浮気は許されないだなんて、そんなことのほうがおかしいわ」

――いや、多分両方おかしい。

私は思ったが黙っていた。

「……でも、そんな遊びももうしばらくやめにするわ」

「それがいいと思いますよ」

適当に相槌《あいづち》を打ったモラン氏に対して、アンジェリカが悪戯《いたずら》っぽく微笑んで言った。魔性の微笑みだ。

「マテュー……今回、貴方、アーサーが死んで正直喜んでいるのではなくって?」

「……え!?……そんなことはありませんよ」

目は驚いているものの、口角は上がっていてる。その微笑みを湛《たた》えたような表情で、否定をするモラン氏の真意は分からなかった。

「そう?私があなたの立場なら、内心喜んでいるわ。アダムス男爵の遺産がいずれ転がり込んでくるだなんてラッキーだとかなんとか、思わずにはおれないわ。……でも、そうはいかないかもしれないわよ」

「それはまたどうして?」

モラン氏の口元はヘラヘラと笑ってはいるが、目からは表情が消えている。図星を刺されてドキリとしているのだろうかと私は思った。

「私がアダムス男爵の子どもを産むかもしれないもの」

「え!?!?!?妊娠してるんですか?」

私は驚いて思わずアンジェリカを問い質した。

「……まだよ。もししているならこうして煙草を吸っているわけないじゃないの」

「……あ、ああ」

私は納得して身を退いた。

「アーサーが亡くなって私気づいたの。私が男の子を産めば、すべては私のものね。女の子でも半分だわ。万事うまくいくわ」

――女は恐ろしい……

私は思った。

 

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